
~御由緒~
「由緒調査書」によると、創建は天平十七年(745)九月二十五日で、
山城国男山八幡宮(石清水八幡宮)から分霊を勧請しました。
末社の天神社は文化五年(1808)に火災で焼失しましたが、
氏子の江角七左衛門が夢のお告げで富籤を購入し見事に当選。
その御利益に感謝し、社殿を再建したと伝わります。
八幡神社について
創建は天平17年(745)9月25日のことで、山城国男山八幡宮(石清水八幡宮)から分霊を勧請した。別当は弘光寺で、23世の法印祐尊は、源頼朝の待念僧として仕え、頼朝が伊豆に配流された際にその命を受けて源家再興のため、当社を祈願所として開運を祈った。満願の後、頼朝から弘光寺に150貫の寺領と武具類が寄せられた。その後、天正年中(1573~92)に弘光寺は兵災に罹り寺領・宝物・古文書類の一切を失った。元和7年(1621)上野国吉井城主菅沼小大膳の後室に当村の内120石を賜り、この内の若干石を神饌料として当社と天満宮の両社に寄進した。次いで、正保年中(1644~48)の検地の際には当村は石野・花井両氏の支配となったが、神饌料寄進の慣例は引き継がれ、明治維新まで続けられた。
中世から近世にかけての当社の造営は、文明11年(1479)・慶長元年(1596)・寛保3年(1743)の3回が伝えられている。その史料としては慶長元年の棟札が残されており「奉勧請八幡大神宮鎮護所・願主武蔵榛沢郡小林六大夫」と記されている。小林六大夫の来歴は不明であるが『風土記稿』の「八幡社 村の鎭守なり、村民の持」の記事にある「村民」とは、この小林六大夫の子孫を指すものであろうか。ちなみに、小林新一家がその末裔であるという。
『明細帳』によれば、明治初年に村社となり、明治36年に字伊勢方の神明社、同41年に字東谷の天満宮をそれぞれ境内に合祀した。天満宮は天徳2年(958)に河内国(かわちのくに)土師(はじ)の天満宮(現大阪府の道明寺天満宮)から勧請したと伝わる古社である。また、神明社は伊勢方の地名から推して伊勢の御師にかかわる社と考えられ、同所に御師が祓大麻を檀那に配るために構えた宿舎のあったことが想像される。
当社内陣に納められている騎乗の八幡大明神像は、昭和62年に同町内山河に住む画家六郎田天鈴の手により彩色が施された。
神社庁発行「埼玉の神社」より抜粋

天満宮の御由来
旧鎮座地
針谷東谷千百参拾貮番地当社は東谷郭の鎭守社で東谷の北のはずれ山河境に接して塚の上にあったが明治四十一年一月一日現在地に移した。当社の祭祀、起源は何時の頃か明らかでないが、天正四年、西暦一五七六年の古文書に天満宮北道限山川村分とあって天神宮のあった北の道か山河境であるということを記してあり、その頃すでに天神社が祀られて事がわかる。
古老の伝えるところによると、現在の本殿は東谷の素封家、江角七左衛門のところへ、ある夜天神様が夢枕に立ってそのお託宣により買った富籤が当り、その後利益に感謝して社殿を奉建したものという。 その後、文化五年二月火災に罹り、古文書類焼失、同年九月再興す。本殿は江戸で造られたもので、一間造り細微な彫刻に飾られた江戸時代建築の典型的なものという。

~御祭神~
御祭神は、品陀和気命・比賣神・神功皇后です。
品陀和気命は応神天皇の別名です。
応神天皇の母が神功皇后で亡くなった夫の仲哀天皇の代わりに、
応神天皇を懐妊したまま新羅に遠征・征服しました。
比賣神(応神天皇の妻)と合わせて「八幡三神」としてお祀りしています。


- 「応神天皇その生涯と伝説」
・応神天皇:日本第15代天皇であり、後に八幡神として知られる武神となる。
・神功皇后:妊娠中に朝鮮半島へ遠征し、帰国後に応神天皇が誕生する伝説が残る。
・彼の時代には、朝鮮半島から多くの渡来人が移住し、日本の文化や技術が発展した。 - 「生まれる前から英雄の謎」
・応神天皇には、生まれる前から壮大な伝説がある。
・神功皇后は、彼を身ごもったまま朝鮮半島へ遠征し、「三韓征伐」で勝利を収めた。
・誕生した応神天皇は、のちに国を治め、八幡神として祀られる存在となる。 - 「武士が崇めた伝説の応神天皇とは?」
・八幡神は、源氏や足利氏をはじめとする武士たちに厚く信仰された。
・その起源は、日本第15代天皇・応神天皇にある。
・応神天皇は武運の神として戦国武将からも崇拝され、多くの八幡宮に祀られる。
・鎌倉の鶴岡八幡宮は、源頼朝が建立し、武士の精神的な支えとなった。 - 「三韓征伐から八幡神になるまで」
・応神天皇は、母・神功皇后の伝説とともに語られることが多い。
・朝鮮半島との交流が盛んになり、多くの渡来人が技術や文化をもたらした。
・死後、「八幡神」として全国の八幡宮に祀られ、武士の守護神として崇敬される。
御利益

応神天皇を主座とし、神功皇后、比賣神を合わせた三神をお祀りしているため勝負運、仕事運,出世、厄除け、開運、交通安全、金運、家内安全や縁結び、安産、子育てなどの沢山の信仰があります。
また、家の守り神として家の繁栄や家族運に縁起の良いヤモリが当社社殿に住み着いていることにあやかり「家守り」を頒布しています。
天満宮本殿の彫刻
応 龍(飛龍)
向拝の兎毛通し(懸魚)の部分には「応龍」の彫刻があります。古代中国から伝わった霊獣の一種で、翼のある龍とされ、「飛龍」とも呼ばれています。


向拝の親子龍(子引き龍)
向拝の虹梁に二匹の龍が絡み合っています。左の龍が右の龍より小さいので「親子龍(子引き龍)」と思われます。同じ大きさの龍は「双龍」とも呼ばれています。龍は昔より火災除けや五穀豊穣のため雨を降らせてくれる水神(水を司る神)として社寺の向拝などにも彫刻されています。

向拝木鼻の獅子と獏
獏(ばく)は、中国から日本へ伝わった伝説の生物で、獏の毛皮を座布団や寝具に用いると疾病や悪気を避けるといわれ、獏の絵を描いて邪気を払う風習がありました。それが日本に伝わるにあたり、「悪夢を払う」が転じて「悪夢を食べる」と解釈されるようになったと考えられています。
組物には龍・獏・象・獅子・息など、多数の霊獣の彫刻が施されています。お寺の欄間には普賢菩薩が白象に乗っている彫刻が多く彫られていますが、白象は縁起の良いもの、仏を守護するものと考えられていました。本物の象を見たことのない当時の日本人にとって、白象は麒麟や鳳凰と並ぶ霊獣のひとつとして認識されていました。社殿にも象の彫刻があるのは神仏習合の名残と思われます。


唐子遊び(獅子舞)左側面胴羽目
唐子は中国風の髪形や服装をした子供の事で、中国の唐王朝の時代に子供達を描いた図柄が盛んに描かれ、日本にも伝わり唐子と呼ばれました。子供が安心して遊べる世の中であることの象徴として、また、何人かの男子を描いた図柄は、多子多産、子孫繁栄にも繋がるとして、彫刻の題材にも多用されています。 唐子の遊びには獅子舞・竹馬乗り・雪遊び等、種々の遊びがあります。
唐子遊び(竹馬乗り)右側面胴羽目
一番左の唐子は竹馬に乗っています。左から二番目の唐子は笛を吹いているようですが、笛と手が欠落しています。左から三番目の唐子は太鼓をたたいていますが、残念ながら右手が欠落しています。


唐子遊び(雪遊び)裏面胴羽目
「雪遊び」の雪玉の形は通常、もっと丸みを帯びていますが、一番左の唐子が冷たい手を息で温めている様な仕草と、竹は雪遊びの構図に多用されているので「雪遊び」であると思われます。
竹林の虎 左側面腰羽目
アジア大陸の広い地域に生息している強そうな虎ですが、実は苦手な動物がいます。
それは象です。象の群れを見ると、竹薮の中に逃げ込みます。その理由は象の巨体は竹薮に入りにくく、また、無理をして竹薮に入ると、竹で象の牙にヒビが入るからです。よって、虎には竹薮が何よりの安住の地なのです。
そんな理由で「唐獅子と牡丹」と同様に組み合わせの良い図柄として多く使われています。


唐獅子と牡丹 右側面腰羽目
唐獅子とは、もともとは仏を守護するインドライオンがモチーフで、インドから中国へと伝わり、想像上の霊獣に変化し、中国から日本に伝わった時、「唐獅子」と呼ぶようになりました。一方、牡丹の原産地は中国で、薬用として栽培されていましたが、日本には奈良時代に、薬用植物として入ってきて、その後、観賞用として珍重されて「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」とも言われるほど美しく、親しまれてきた花で、牡丹の花は「花の王とも言われています。そして唐獅子と牡丹の関係ですが、「百獣の王」の獅子にも、ただ一つ恐れるものがあり、それは、獅子の体毛の中に発生、増殖し、やがて獅子の肉まで食べてしまう害虫です。(獅子身中の虫)しかし、この害虫は、牡丹の花から落ちる夜露にあたると死んでしまいます。そこで獅子は夜に、牡丹の花の下で休みます。獅子にとっての安住の地が、牡丹の花の下なのです。それが組み合わせの良い図柄として好んで使われるようになりました。
麒 麟 裏面腰羽目
麒麟は中国神話に現れる架空の動物で、世の中が平和な時に現れるとされ、殺生を一切せず、 肉も植物も口にしないと言われています。顔は龍に似ていて足は馬と同じように蹄(ひづめ)があるのが特徴。
